ほくそんの備忘録

日々流れてしまう言葉を書き留める備忘録

校内でおしゃべりできるところ

 

校内に自由にお話しできるところが欲しいなと思っていた。

 

 

hokuson-diary.hatenablog.jp

 

 

放課後、遅くまで残った先生方であーだこーだ話をする時間がとても好きだった。(といっても隣ともう1つ隣の先生3人)

頭の中の整理にもなるし、話しながら“自分ってこういうことに重きを置いて子どもに接していたんだ”と気づかされることも多い。

 

しかしいつ始まるかわからないおしゃべりの会。用があれば定時で失礼するし、それぞれの仕事に集中したい時もある。

 

今までは前触れもなくおしゃべりが始まることが多かったが、これを環境を設定することにより、再現できないだろうかと考えた。

 

「教育とはなにか」「教師の役割とは」など教育の本質的な話だったり、「子どもにかける褒め言葉ってどんなのがいいの?」「怒るってどういうこと?」など学校生活で少しもやっとした話まで、学部・課程関係なくいろんな先生とお話しできたらいいなあと。

 

 

そして先日、よく話を聞いてもらっている若い先輩に話してみた。

 

“楽しそう!”と言ってくれて、とても具体的に案を出してくれた。

まずは何人かピックアップして小集団からはじめてみようという話になった。

 

いずれは学校全体のオープンなおしゃべりの場に…と思っているけれど、なかなか難しいということは百も承知である。

 

職場での立場上、私の人間関係が露骨に出てしまうことは避けたい…

その点では先輩に相談できてとても良かったと思う。

 

 

思考が形になっていく過程に面白さを感じるので、また何かあったら記録します。

次回をお楽しみに〜

 

f:id:hokuson-diary:20191104174533j:image

あの先生の授業

 

担当クラスの教員は私含め2人、子どもは4人(重複障害学級)。

 

主指導はもう一人の先生。

 

とっても良い授業だった。

 

その先生の子どもへの関わりは、学校の中で“肢体不自由のスペシャリスト”と呼ばれるほどとても良いのだけれど、なかなかご一緒する機会がなく今回やっと授業を一緒にできる運びとなった。

 

 

肢体不自由の授業における“良い”って何だろう?

 

「待つこと」「間をつくること」

「フィードバックをすること」

 

この3つではないかと思う。その先生の授業から抜粋すると…

 

「ではそれぞれお名前を呼んでいきます。(呼ぶ子どもの目の前まで移動、正面で顔の表情がはっきり分かるくらいの距離)」

→「◯◯さ〜ん(手の平を子どもに見せ、手を合わせられるように「待つ」)」

→(目をまっすぐ見て、笑顔のまま「間をつくる」)

→手を合わせられたり声が出たりしたら「はーい!上手に手を合わせられたね〜(上がった手の方を握って先生が「フィードバックをする」)」

 

もし手や声での返事が難しかったときは…名前を読んだ後、

→(目をまっすぐ見て、笑顔のまま「間をつくる」)

→瞬きをしたり、口を動かしたり、指が少しでも動いたら「瞬きしたね〜お目目が動いたね〜(先生の目を触ったり、子どもの目の周りを触ったりして「フィードバック」)」「お口が動いたね〜(先ほどと同様口を触って「フィードバック」)」

 

「フィードバック」というのは、関わり手が子どもの“何に”反応しているかどうか、言葉と一緒に触覚でも伝えること。

 

何を褒めてくれているのか、子どもに分かるように提示しないと、子どもにとっては「なんかよく分からないけれど、先生が笑顔になってる」で終わってしまう。

 

 

他の子どももいることや、授業時間などで待つ時間をつくるのってとても大変だけど、このひとつひとつがとても大切であると授業を一緒にやって実感した。

 

日々が目まぐるしく回っていく中で、このことに今気づけてとても良かった。

 

 

f:id:hokuson-diary:20191012102756j:image

はじめての地裁

 

久しぶりの平日休み。

平日に予定がないときは地方裁判所裁判員裁判の開廷期日を調べます。

 

大学生のとき、「裁判所は自由に傍聴できるから一度行ってみるといい」と先生に言われたことを覚えていたのと、

 

中学生?高校生?のときに読んでいた本を思い出したから。

裁判長! ここは懲役4年でどうすか (文春文庫)

裁判長! ここは懲役4年でどうすか (文春文庫)

 

 

(この本は裁判の様子をイラストを交えてまとめたもので、被告人でも全然反省していない人や、涙ぐむ人など様々な人間模様を面白おかしく書いている。)

 

 

なかなか裁判所と私の予定が合わなくて、今日やっと傍聴することができました。

 

 

行く前に、どんな服装で行けばよいのか、何がダメなのか調べました。

 

服装は基本的に何でもよいそうです。実際、検察官や被告の知り合いであろう人たちはスーツだったりと色味はおとなしい感じでした。

 

(私は黒いトップスにスカートを履いていきました。カジュアル寄りです。)

 

またタスキや腕章などはつけてはいけないようです。

 

傍聴する際、予約や申込は必要ないので、行って開廷している裁判を見る、というのが流れです。

 

私は傍聴したい裁判が決まっていたので、ホームページに記載されている部屋に直行。

 

傍聴席に座ると、すでに被告人の知り合いであろう人が何人か座っており、しばらくして被告人が入廷しました。

 

そして裁判員さんが入廷すると、法廷にいる人全員が起立しました。

 

裁判の内容を詳しく記載しないほうがよいと思われるので、私が見た裁判に関わるURLを貼っておきます。

 

www.sankei.com

 

 

 

「お前何してんだ」と言われてしまいそうですが、社会が法律を破った疑いのある人をどのように裁くか、その過程を実際に見ることができてよかったと思います。

 

きっと私が見たのは裁判の流れの中でもほんの一部でしかないと思いますが、裁判員裁判のニュースを見るのが昨日より少しだけ興味深く見れそうです。

 

クリスチャンボルタンスキーの回顧展を見て

 

bijutsutecho.com

 

ボルタンスキーさんが日本での展覧会を行う上で

「会場全体を展覧会と見立てて作品を飾りたい」と。

 

自分の作品を個々として考えるのではなく、自分が作った作品を飾る場所をも自分の作品にしてしまう斬新さ。

 

空気感も作品の一部として捉えているところにこだわりを感じた。

 

ボルタンスキーさんは自分の生き様を作品に投影させ、生や死、存在という抽象的なものを形にしていた。

 

 

自分の生きてきた証が、作品になったり形になったりするのって良いなと思った。

 

 

f:id:hokuson-diary:20190814132939j:image

一生のうちに食べたい行きたいチョコレート屋さん

 

とってもチョコレートが好きなんです。

 

でもチョコレートを食べると絶対と言っていいほど顔にニキビができるんです…最悪です…

 

皮膚科に定期的に行くので、お医者さんに「チョコレートはニキビの原因になるんですか?」と聞くと、「直接的な原因にはならないけれど、それを食べてニキビができるのであれば食べるのを控えたほうがいいですね」と。

 

今は、少量であれば影響がないことが分かっているので、自分の体調と相談しながら食べています。

 

食べたいチョコレートだけが増えていくので、忘れないように残しておこうと思います。

 

 全部で三つ!

 

 1) ca ca o kamakura/カカオ鎌倉

 

www.ca-ca-o.com

 

 「日常に上質なチョコレートを」をコンセプトにチョコレートからコスメ、レストランを展開する。

 

2019年6月に鎌倉の銀行跡地の一角、金庫室の中に「ROBB」がオープン。カカオを主役としたフルコースを楽しめるようです。

 

robb.jp

 

 

2) オリジンヌカカオ自由が丘本店

 

www.kataoka.com

 

ボンボンショコラがかわいい。

自由が丘本店にはカフェもあったのだけれど、今はやっていないよう。

 

 

3) MAMANO CHOCOLATE (ママノチョコレート)

 

mamano-chocolate.com

 

ここは通販もやっています。なんと夏でも…!

 

「神様の大粒生チョコレート」「神様のボンボンショコラ」というネーミングが良い。

 

 

以上3つ。

行きたいお店が増えたらまた追記したい。

 

f:id:hokuson-diary:20190815194456j:image

おしゃべりのような意見交換

 

校内で気軽に意見交換できる場が欲しい。

 

現状を話しながら自分で気づくことも多い。

 

他の教室の様子も聞きたい。

 

現場では日常的に教師間でおしゃべりをして子どもの様子を意見交換する。

 

しかし職場の人間関係が色濃く出たり、決まった時間を取ることができなかったりする。

 

定期的に"おしゃべり"ができたら良いなと思うが、この"おしゃべり"は環境を設定しないからこそ成り立つものなのか?とも。

 

ああ難しい。

 

と考えたときに思い出したのがこの本。

 

hokuson-library.hatenablog.com

 

家に本がないのだが図書館で借りたんだっけ?買わないと。

 

 

f:id:hokuson-diary:20190809151009j:image

夏の講演会

 

令和元年度 栃高教研特別支援教育部会 肢体不自由教育分科会講演会が8月にあり、とても良かったのでまとめます。

 

講演会概要

 

講演者:国際医療福祉大学 保健医療学部 作業療法学科長 教授 谷口敬道先生

 

演題:「子どもの行動のとらえ方と対応の実態〜関係性の発達に着目した取り組み〜」

 

副題:「重い障碍のある子どもたちと教師のコミュニケーション」

 

参加者:栃高教研特別支援教育部会会員

 

講演の趣旨は「言葉を話さない子どもたちの「ことば」をどのようにして聴きとるか」

 

もっと具体的にすると「人と人がコミュニケーションをするとはどういうことか」「身近な人とのあいだのコミュニケーションにおいて大切なものは何か」

 

 

では早速、

 

どれほど障碍が重くても、子どもを一個の人格をもった存在なのだと受け止め、その子どもにきめ細やかな配慮を働かせながら、何とか「子どものことを分かろう」と努める志向性が教師の側にあり、そこから「受け手効果」が生まれ、原始的コミュニケーションが始動する瑞緒となります。

 

 

1)相手のことを一個の人格として認める

 

言語理解できない子どもに声を掛けることは、声のトーンや体の動きなど知覚的情報が詰まっているだけではなく、子どもを一個の人格として認めていることも含まれる。

 

ただ声を掛けているだけでなく、一人の人格としての配慮がそこに現れている。

 

 

2)相手のことを何とか分かろうと分かりたいという志向性

 

教師の、子どもの様子を言語化する表現全体は、子どもの情動を共有しつつ、それを「映し返す」意味を持つ。

 

つまり子どもにとって「情動の共有」→「満足」→「その再現」(安心する→満足する→またやりたいと思う)

 

一番はじめの「情動の共有」は、教師の"この子を分かりたい"という気持ちがまずあって関わりが始まるのだと思う。

 

 

以上コミュニケーションする上で心掛けること2点を確認し、共有した。

 

振り返ると、これは障害のある子どもや乳児期だけでなく、誰かと関わる上でも大切なことではと。

 

障害の重い子と関わる上でとても基礎的な部分なのだけれど、なかなか言語化できてなかったんだと実感した。

 

 

f:id:hokuson-diary:20190813193948j:image